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『Think Simple』監修 林信行氏による日本語版解説をUP

category : Information | date : 2012.05.23
『Think Simple アップルを生みだす熱狂的哲学』P313-317より抜粋して、掲載しております。

 

『Think Simple アップルを生みだす熱狂的哲学』P313-317より抜粋

 本書の著者、ケン・シーガルの名前は、アップルの歴史に関する本にはほとんど登場しない。だが、倒産寸前から時価総額世界一まで、大躍進した故スティーブ・ジョブズ最後の十五年のアップルにおける彼の功績は無視できない。
 私はアップル社幹部の友人から、度々、本当の隠し球のように彼の名を聞いていた―あの何度聞いてもいまだに鳥肌が立つ「Think different」のCMのすばらしい言葉をまとめた人物として、そして、その後のアップル社の「i」の革命を生み出すきっかけとなった「iMac」の名付け親として。
 奇遇なことにNHK出版の松島倫明氏から本書のことを聞いたのは『スティーブ・ジョブズは何を遺したのか』(日経BP社刊)というムックの取材で、アップル社でマーケティングコミュニケーション部長だった河南順一氏の話を聞いた直後だった。氏はシーガルと一緒にThink differentキャンペーンの日本での展開を手掛けていた人物だ。
 それまでアップルの各国の支社は、米国本社がつくった製品や広告のメッセージを、国ごとの文化やニーズにあわせローカライズするのが仕事だった。だが、ジョブズはこれを「シンプルの杖」で叩き壊し「Think Global」という標語を掲げた。世界中で共通の製品を販売し、広告のメッセージも共通化する。問題があれば本社にフィードバックをする。それによって本社にもグローバルな製品展開のノウハウが溜まる、というのだ。
 もともとローカライズすることが存在意義だったアップルの支社は、これに猛反発した。そこでジョブズは、ものごとがシンプルに進むように、シャイアット・デイのスタッフに主導権を与え、アップル社のマーケティング担当者らは、そのアシストに回った。日本にはシャイアットの支社がなかったので、河南氏らが中心になって、まずはシャイアットの日本法人をつくるところから作業が始まった。
 シンプルな体制の下、長期的な成功を目論むのであれば、正道を貫くための一時的な道路工事の手間やコストは惜しまないのだ。
 さて、アップル社のビジネス戦略を項目立ててドラマチックに語る人や著書も多いが、本書をお読みになった方ならわかる通り、実際のアップル社の戦略は非常に「素直」そして「シンプル」なものだ。読んで「そんなの当たり前じゃないか」と思う人もいるかも知れない。
 私も何冊かアップルのイノベーションの秘密に関する本を書いたが、この当たり前の実践こそが大事だと説得することが最大のチャレンジで、膨大な資料を漁り、納得できるエピソードや実例を列挙してきた。シーガルの強みは、自身が十年以上ジョブズと直接仕事をしたエピソードを持ち出せることだ。シーガル自身が隠れた存在だったため、本書にはこれまであまり明るみに出なかったアップル史の史料としての面白さもある。
 「シンプル」戦略の話に戻ろう。一見「当たり前」に見える「シンプル」な戦略だが、問題なのは世の中のほとんどの会社が、その「当たり前」がまかり通らない大企業病に冒されていることだ。
 日本に限らず世界中のほとんどの企業は、それが「シンプル」だとわかっていても、「それが正しいのは知っているけれど」とか「規則だから仕方がない」といって、邪道な遠回りを繰り返す。あるいは、そんな意識はなくても、そもそも会社組織があまりにも細かなセクションに分けられてしまっているために知らず知らずのうちに遠回りをしていることもある。こうして十数年にわたって積み重ねられてきた遠回りの手間の蓄積は、アップルが正道を貫くために行った道路工事よりもはるかに膨大だ。かつては世界を席巻した日本の大手家電メーカーを崩落の危機におちいらせるほどにまで溜まってしまった。
 そんなこともあって、ここ数年はよく経済誌に「アップルの成功の秘訣は?」といった取材を受けるが、「シンプルこそが鍵」と語ると、話の中身が「シンプル」過ぎて、あまりウケがよくなく、記事の扱いも小さくなる。
 代わりに、アップルの小さな戦術を拡大解釈した派手な記事が誌面を賑わすことが多い。だが、そうした戦術は読み物として面白いだけで、どこの企業、どの製品にも当てはまるというものではないし、長く続くものでもない(残念だが多くの経済誌は読者が買ってくれる記事を採用する。そして近頃の読者はシンプルな味よりも合成着色料とスパイスと添加物で派手に味付けされた記事を好む傾向が強い)。
 より本質的な戦略は、本書がその全編で繰り返しているように徹底して容赦なく「シンプル」を追求することだ。ここで大事なのは、「どこまで徹底して追求するのか」という点だろう。
 先の河南氏が初めてジョブズを日本で迎えたマックワールドエキスポというイベントの時の話は興味深い。当時、日本のアップル社員も、ジョブズが「怖い」「厳しい」と聞いてはいたが、皆、「どの程度のものか」と懐疑的だった。当時、ジョブズは失敗しアップルを追い出され、ネクストでまた失敗した癖にアップルを乗っ取ろうとしている信頼できない人物だと社内では見られていた。
 ジョブズは、米国アップル本社と代理店が、製品がもっとも美しく見えるようにミリ単位で正確にデザインしたアップル社ブース(複製をすると何かが崩れるといって、米国から空輸した)を一周した後、頭上を指差した。上にかかっている横断幕のピアノ線が一本たるんでいる、降ろしてやり直せ、というのだ。これがきっかけで、日本のアップルの社内にはひとつのミスも犯せないという緊張感が高まり、それによって仕事が引き締まり、モチベーションもあがった、という。すべてが完璧に配置されたブースで、ピアノ線が目には見えない前提ではあるものの、たるみという複雑さを持ち込み、調和を乱していた。シンプルさの王国では、それは許されなかった。
 おそらく誰もが、「シンプル」な方がものの進みが速く、全体が明瞭にわかり、快適で「いいに決まっている」と直感ではわかっているはずだ。しかし、現代の企業は、本音と建前でいうと、建前の配分の方が圧倒的に大きく膨れ上がったまま、この十数年間を突き進んできた。気がつけば建前の積み上げが巨大になり過ぎて、中の社員は、もはや、何が正しいかを瞬時に判断する本能的な直感力さえも失いつつある。
 シンプルで、会社全体に神経がいき渡った組織なら、何か間違いを起こしても、それを察知して、全員で正しい方向に舵を取り直すことができ、その上、失敗の経験を記憶にとどめ、繰り返さないように注意できる。
 これが複雑怪奇に肥大化した建前の王国では、誰かが間違いに気がついても、その報告が決定権を持つ人にたどり着くのは会社が既に大量の出血をした後だ。しかも、神経の伝達が悪くて、失敗を記憶にとどめられないので、以後も、同じ失敗を繰り返す。あるいは失敗を繰り返さないように、一切の冒険を避け、つまらない企業になり下がってしまう。 そうならずに長期で会社を活性化し、再び世の中に生きた貢献をしたいのであれば、もっとも長期的かつ本質的な解決策は、今、少し遠回りをしてでも、一度立ち止まって組織をよりシンプルなものにつくり直すことだ。一九九七年にジョブズがそうしたように。

 

林 信行